私見

子宮それ自体や精巣それ自体に欲情するひとは(おそらく)いない。(いたとしてもそれは結局フェティッシュであるほかない)
したがってどのような形での性欲も「正常」ではない。
フェティシズムの両義性。性欲におけるフェティッシュはものと人との「転倒」にあるのではない。ものと人間の両方に属すこと。そのような両義性を持った何かがフェティッシュとなる。
スカトロが好きな人は、排泄物を人が「出してるとき」に興奮を覚えるという。出し終わったそれはものにすぎない(そうじゃないひともいるかもしれないが、しかしその場合も「人間の痕跡」をそこに見出している)。
性的な暴力は相手を「人間」であると認知しているからこそ成立する。
しかしまたそのとき、身体は私にとって交換不可能だが、他者にとっては交換可能な「もの」として現れる(「人間」の定義における二律背反)。
ここに暴力がある。しかしこの状況は社会のあらゆる場所に見出されるのではないか?
このような社会の位相から夥しくわきでる幽霊に、ひとはとりつかれている、そして幽霊たちはあたかも自らが本体であるかのように振る舞い、この世を支配している、そしてにんげんは、時にはこのような暴力を受けることをさえ望む。交換不可能なものなど、煩わしいからだ。
幽霊に、つねに「自己」を奪われている(だから自己などは最初からありはしなかった)、このような基礎的な関係性への絶望的な対立および闘争は、「病気」とよばれるかたちをとって現れてこざるを得ない(しかし健康と呼ばれる者は全員もれなく「死に至る病」にかかっている、まさしくエロスがタナトスのために存在するかのように)。

振る舞いは伝染する。言葉は伝染する。
身体の社会性と自然性の落差が、フェティッシュとなる。
人は、腕を切れば血を流す。リストカット。それは自らの身体のそのような自然性を、自分自身によって再確認し、無害化するための行為ではないか。いいかえるなら、自然性は他者によって欲望へと回収される、そのことに対しての抵抗。