統合失調症をメタファーとして哲学的もしくは美学的言説に使用するのは納得がいかない。むしろ真に重要なのは統合失調症患者が主体の際限なき分裂、他者性の流入に疲れ果て「単一の人格」を希求する(せざるを得ない)ことだ。ドゥルーズ的な視点からはそのことを否定的に捉えざるを得ない。あるいは多重人格における、自らの症状に対する激しい憎悪。空虚な主体がそれゆえに反転して世界を生産のための機会とみなすような(主観的機会原因論!)ロマン主義的主体像はネオリベにたやすく回収される。それはカール・シュミットロマン主義批判に明らかである。ニーチェアルトーキルケゴールが「真の自己」を「希求」したことを思い起こすべきだろう。そして彼らは圧倒的かつ根本的なありかたで反ロマン主義だった。
傲慢な言い方になるが、「現代人」の主体の存立構造を解析したつもり(あるいは主体の成り立たなさの構造、といってもいい)の社会学的言説やら心理学的言説はすべて偽の問題を自分で作って自分で答えようとしているだけのように見える。
人はそう簡単に乖離や分裂などできない、それは当たり前のことだが、もしそれが可能だとしてもそのあとには想像を絶する苦痛と恐怖が待ち構えている。それは「知的」問題などではもちろん無い。どういうわけか種々の「共同性」や抽象的また具体的意味での「システム」からズレる人間は出てくるのだけど、当然そのズレは当人にとってはウンハイムリッヒな何かとして経験される。で、そのような経験を持っている人はほとんど皆無に近い。
人は自分で思っている以上に「共同性」に浸されていて、それは共同体の否定やらなにやらを言説や認識のレベルの問題として回収してしまうことを見ても明らかだ。
「生存の美学」などという言葉は倫理的とは思えない。

自分の中に他人の顔が入ってくる…
自分が他人の顔を取っちゃって…
自分の中に他人の顔と自分の顔がある、そういうことが一週間くらい続いた…
(他人の顔が自分の中にあるとどうなる?)
自分の才能が伸ばせない。
(才能?)
能力のこと、現実に対処する力…
対処力が弱いから自滅するというか…
(他人とは?)
不特定個人というか不特定他人というか…
木村敏「自分ということ」p177)