ミシェル・フーコー思考集成IX 1982-83 自己/統治性/快楽』

「いかなる技術も、いかなる職業的な技量も、修練なしには獲得されえない。「生の技法(techne tou biou)」もまた、自己自身による自己自身の鍛錬という意味に解すべき「修練(askesis)」なしには、身につけることはできない。そこに、ずっと以前からピュタゴラス派も、ソクラテス派も、キュニコス派も極めて重要な意義を与えてきた伝統的な原則の一つがある。このような訓練が取っているすべての諸形態(それには、禁欲や銘記、良心の吟味、省察、沈黙と他者の聴取が含まれる)のなかで、書法―自己自身や他者のために書き留めるということ−が、かなり後になって、無視できない役割を果たすようになったというのは、確かであるように思われる。」

キルケゴール死に至る病白水社イデー選書、松浪信三郎+飯島宗享訳)』

「さて、絶望がまったく根こそぎにされた場合の自己の状態をいいあらわす公式は、こうである。自己が自己自身に関係しながら自己自身であろうと欲するときに、自己はこの自己を置いた力のうちに、はっきりと自己自身の根拠を見出す。」