引用

今年の三月札幌からうつって来て同棲中の真智子は、もう半月も原因不明の病で呼吸困難に陥り、二日も三日も昏睡状態で意識が戻らなかった。当然食事も受け付けず、日に日にやせ衰えてゆく身体を山口さん(訴訟派)の借家に横たえていた。水俣病に囲まれて暮らす生活に彼女の過敏な神経がすり切れてしまい、一種のノイローゼやヒステリーに襲われているらしい。身寄りのない水俣病申請のおばあちゃんを看護して帰った夜は、そのおばあちゃんの窮状を熱っぽく訴えていたが、それから二、三日して真智子自身が水俣病のケイレンを起こし始めた。胸の前でX字に腕を組んで振揺り出し、固く身体中をちぢこませ、歯をくいしばったまま一個の人間マリになってゆくケイレンの仕方は、真智子が語ったお婆ちゃんのケイレンそっくりだった。
毎夜毎夜私一人の力では揉みほぐせぬほどの強い力で、呼吸困難と意識不明の中に引きずり込まれてゆくのだった。呼べど、叫べど、うとうが蹴ろうが壁に叩きつけようが、もう目を覚ますことはなかった。(中略)婦長は「水俣がきつすぎるんです。札幌に帰すしかないでしょう」と告げた。通院するようになると歩きながら意識を失って倒れたり、「呼んでる、呼んでる」などと口ばしって車の行きかう六ツ角の交差点にふらりと歩み出て行くのだから、これはもう一種の自殺志願者のようなものである。
吉田司『下下戦記』文春文庫p350〜351)

主体の身体性、それは努力に伴う労苦であり、運動の跳躍ならびに労働のエネルギーのうちに萌芽する疲労の根源的逆行性である。質量は主体の外から主体に抵抗するが、さもなければ、身体をつうじて主体に抵抗する。身体によって、主体は不可解な仕方で苦しめられ、主体の構造も変調をきたす。けれども、主体の受動性を記述するためには、質量と主体との対立から出発してはならない。社会は人間から「労働の産物」を奪いつつも、人間を労働に縛りつけるのだが、主体の受動性を記述するためには、人間と社会との対立から出発してもならない。たしかに、主体の受動性は他者に対して主体が暴露されることである。だが、主体の主体性は、闘争を宿命づけられた被抑圧者がこうむる受動性よりも受動的な受動性である。主体の主体性ないし臣従はもっとも受動的な受動性であり、能動的に引き受けることのできないものである。私以外の被抑圧者に対する責任ゆえに、私に刻印される強迫(obses-sion)、かかる強迫に主体の主体性ないし臣従は由来する。この強迫ゆえに、闘争は人間的なものでありつづける。自我による自己の再把持をつうじて、受動性が存在することを偽造しないためにも、この強迫が必要不可欠なのだ。自我による自己の再把持がたとえ犠牲への意欲ないし寛大さであったとしても。
(E・レヴィナス存在の彼方へ合田正人訳、講談社学術文庫p140)