鶴崎いづみ展『測量』

鶴崎いづみ展『測量』

会期|2009.10.1-13(日曜・祝祭日休)(注・展示はもう終わってしまいました)
開場時間|11:00-19:00
会場|GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE http://correlative.org/exhibition/index.html


各所から拾い集めてきた種目が異なる別々の木の枝を(幹や葉の部分のみのものもある)接合し、ある程度の「まとまり」になったものたちが、ひとまずギャラリーには置かれている。しかしこの『作品』はそれで完結しているのではなく、作家は会期中木の枝や幹を拾いつづけ、それをギャラリーに持ち込んでは接合を繰り返す。
この接合では、ある枝の節や断面に針金やパイプなどを通して、それを紙粘土で覆い、別の枝と繋げる、という方法がとられている。この枝とこの枝がつながるとすれば、『間の枝』はどんな形をしているのか、という作家の問題構成、それが接合箇所の紙粘土を『枝』のような形にしている理由でもあるだろう。こうして明らかに不自然な存在しない植物だが、紙粘土の『枝』の部分が、実際の枝を単に紙粘土で覆ったようにも見える、という背反する効果を生み出しもする。
ここで重要なのは枝と枝はいくらでも交換可能(分離可能)なものではない、という点にある。要するに、紙粘土の枝を再びそこだけ取り出してバラバラな状態に戻すのは容易ではない(不可能ではないにしても)という事だ。枝と枝の断面(「こことここはうまくつながりそう」)という物質的条件(作家の判断は介在しているにせよそれでも物質的制約がある)と先に触れた紙粘土の物質的条件がそれを容易でないものにしている。これはある種の危うさに触れているといってもいいだろう。別の何かと別の何かの「出会い」はともすれば偶然を運命に転化するような悪い意味での「文学性(ゲーテは妻との出会いを魂の輪廻による運命であると位置づけていた)」をはらんでしまう危険があるような気がするからだ。適当なことを言っている様にも思うが、無根拠なつながりにおける感情の派生ともいえる。
しかし同時にその条件にこそそのような危険から逃れる可能性も見えてくる。つまりはこの作品と同定することが難しいような『作品』は「やり直しがきかない」。その都度の接合において「彫刻的」なのか「絵画的」なのかよくわからないがなぜか作家は判断し、ある「つながり」をつくらなければならない。つまり偶然を運命ではなく必然化させる、その判断の不可避性によって、(その判断を条件として、といってもいい)全体的にテンションの高い面白い空間(といっていいのかわからないが)をつくることに成功している。
しかし上述した条件の為に作家はある箇所の接合において「失敗」もする。しかしその「失敗」は会期中には「やり直しがきかない」。ここに(ある種美術的な価値基準からは評価され難い部分でもあるけれども)ひとつの可能性があるように感じた。
さて、これらの木々には白蟻や茸が生息している。白蟻があけた穴は日々大きくなり、ギャラリーに木屑が積もりもする。作家が接合することとは別の系、プロセスがあることがそこに示されている。つまり白蟻や茸は作家でもある、というより作家は白蟻や茸のように作業を行うだけである、と言い換えることもできる。白蟻の木屑は元に戻らないという不可逆性。
(この様に作家と作品の関係,定義は安定しない。私はあえて『作家』とここで呼んだ。こうした「方法」は言葉だけいうことは簡単だが端的に総評でも触れられているように『制度的』にかなりの困難がつきまとう
これもまたある種の美学に回収されてしまう危険もあるけれども、この方法をどのように展開していくのか、関心をもちました。