倒錯した生成

「かつて君たちは、君たちの唇のうえで歌をうたった未知なる言葉を得た事があったか、馬鹿げたフレーズの呪われた断片を」(S・マラルメ「類推の魔」)
統御しえないものを、いかに統御するか。「類推の魔」は1874年に、この問いとともに提出された。「類推の魔」はそれ自体、作家が作品を生成することのアナロジーになっている。身体は、世界に共鳴して、弦の様に鳴る。作家は自らに「魔=demon」として到来した謎めいた言葉の「意味」を探りながら、歩き出す。そしてそれらの言葉が、ショーウィンドウ越しに見た自らの仕種と、骨董店の有り様の「予言」だったことを見い出す。
倒錯した時間と、その生成。受動性と能動性。必然と偶然。事後的に見い出される「形式」。それらは、予め作家が統御し得るものではない。ドグマとしての「モダニズム」が理論的に要請した自律性の概念は、しかしモダニズムの「起原」において、すでに問題として存在しなかった。作家にとって作品を生成する事は、常に統御し得ないものをいかに統御するか、言い換えれば超越論的な「形式」をいかに「生成」するかという問いと切り離せない。青年期のジョイスは、レッシングの「ラオコーン」に感動を覚える。しかし彼の後の仕事は、「モダニズム」の圏域を遥かに突き抜けるだろう。
「私は年老いた時代に、大変若く生まれてきた」(E・サティ)
C・S・パースは、帰納と演繹の思考法にもう一つ、「アブダクション推論(仮説的推論)」を加える(とはいえこれも広い意味での帰納法ではあるが)。それは例えば以下のようなものだ。
自分が廻ると周囲が廻って見える
空は廻って見える
地球は廻っているのではないか
アブダクション推論には、「仮説」として「時間」の概念が入っている。人間が推論過程によって世界を形成するのなら、「世界」とは必然と偶然の位相が区別できない何かとして「ある」ということになる。相互に矛盾する「呪われた断片」の力を歌ったアルトーが記した以下の言葉における「詩」には、「芸術」、「文化」を代入してもよいだろう。 「世界の存在自体が秩序への挑戦であるが、その世界に詩と秩序を持ちこむことは、闘争と闘争の永遠生を持ちこむ事である」(アルトーヘリオガバルス」) 「超明晰」であり、同時に「狂人」でもあったアルトーは、誰よりも「情念=passion」という言葉の意味がわかっていた。それは形式と形式の分裂であり、統合である。
バッハのマタイ受難曲で、磔にされたイエスを罵倒する民衆の、四声のフーガ。聴衆はその交叉する音列群にイエスの「受難=パッション」を自らのものとして経験する。芸術は、世界をつくり、世界に抵抗する。21世紀になっても、見い出されるのは錯綜し、分裂した力の衝突だ。そこに倫理がある。