セクシュアリティについて考えるなら、キルケゴールアルトーを読めばそれでいい、と傲慢にも私は思っている。
私にとって「性」とは決して社会に回収されえない「超暴力」に他ならない。
自らのセクシュアリティを語ること、それは他者によってではなく自分自身を代表(リプレゼント)する試みではあるかもしれない。
フローベールは「ボヴァリー夫人、それは私だ」といったそうだが、本当は「ボヴァリー夫人、それはわれわれ近代人だ」といいかったのだろう。
それを敷衍すれば、現代人はたかたが「メタ・ボヴァリー夫人」であるにすぎない。
セクシュアリティの語りを織り成す無数の告白、それは「死にいたる病」と「超暴力としての性」を捉え得ない。むしろそれは、誰もが「安心」できるような言説でしかなくなるだろう。