ボケとツッコミと危ない人(乱暴なはなし)

前述したように、ボケは、「これはボケである-これは笑いである」というメタ・メッセージを含んでいる。それは、観客と芸人とのあいだに共有されるコンテクスト、とも言い換えられるだろう。このメタ・メッセージ-コンテクストの共有があるからこそ、ツッコミもまた成り立つ。実際ちょっと「危ない人」が芸人の「ボケ」と同じようなことを言ったとしても、それにツッコミをいれることはいささか難しい(そもそも笑えないし)。
このことから「ツッコミ」は、基本的には観客の側とボケる相方との間で行われるものだ、と考えられる。「ボケ」にある潜在的な面白さをわかりやすいかたちで観客に示す、というのが「教科書的」なツッコミの理想像だろう。また、コントや漫才によく見られる、芸人が「素」になったり、相方のプライベートなことを言ったりするというのは、観客にとって、「笑い」におけるこのメタ・メッセージ性が自明なものだからこそ、成立するものだ。(ただ、本当に面白い「ツッコミ」は、一種の「ボケ」である。それは、ボケ自体の意味合いを変換して、更なるボケ-ドライブを生むためのものとして、機能する。)
ちなみにTVとかの安易な「楽屋落ち」ギャグは、この、客と芸人とのコンテクスト共有性を「客(視聴者)はTV局や芸能界の人間関係を知っている」と思い込んでいるために芸人-製作スタッフ(TV局)との共有性にまで(想像的にだが)縮減した、単なる勘違いの、最悪なものだ。
ただ、私が「面白い」と思う「笑い」は、基本的にツッコミを一切いれず、「いきっぱなし」のコントやギャグ漫画である。松本人志でいうなら、ヴィジュアルバムのなかの幾つかの作品、「ごっつええ感じ」のキャシー塚本、わけのわからない殺人事件を扱う「刑事モノ」である。その種の笑いは、いつしか「危ない人」とのコミュニケーションにも似てくる(ここが一番重要なところだ)。「寸止め海峡」の最後の、「赤い車の男」を見れば、それがわかるだろう。こうした笑いは、むしろツッコミを排することによって、「笑い」における論理の働き方がとりだしやすいものになっている。しかしこうした「笑い」の分析は、また後日。
ちなみにこの「ツッコミの無さ-成り立たなさ」を現代美術でやった人というと誰になるのか。ブルース・ナウマンとヴィト・アコンチ?いえ、思いつきですから「ツッコミ」は勘弁して。