「モダニズムの論理」2


 懸命な努力によって、謎めいた「他者」の固有言語を組み込むこと。ここでの領有の目的は、他者の美的言語を、故意に搾取することではないだろう(しかしまた、多くの部分が不可解であるような「美的言語」の芸術作品への組み込みによって、自分自身をも困惑させることになるだろう)。こうして見ると、搾取とは、その主な意図が、まさしく知覚の限界を逃れるための企図の、予想外の副作用―無知と無神経さの帰結―である。
 西洋美術のフォーマリズムは、「固有性の占有」*1の、直接的な結果である。なぜならそれは、作品の「内容」が不可解、不明瞭で、無視される(ゆえに形式の特性がのしあがってこれた)唯一の場所だからである。
 この推論は、我々のヒトとしての、最初の認知問題(文化的なコンテクストを措いて、意味を識別すること、そしてただ二次的にだけ形式を識別すること)を、前提としている。形式それ自体は、意味を高め、照らし出すものとしては興味深い。だとしても、それならばアーティストは、最初に異邦人の芸術を見なければならないだろう。そして、形式の特性が、自分達の文化における芸術の、「形式の特性」についての自己認識を高める前に、そもそも彼らが文脈上の意味の把握に失敗しているということを、認めなければならないだろう。そう、例えば、Master of the Osservanza のような芸術家による、空間と構造の処理は、確かに古典的なヒンドゥーの壁画の、空間と構造の処理に似ているという自覚なしに、生じたかもしれない。しかしこの自覚なしには、それが、独特な様式として、意図的に弧絶され、洗練されることはなかったかもしれない。というのは、それを区別し強調するべき特徴の、外部のソースは無かっただろうから。
 美学としてのフォーマリズムは、内容についての、知覚(=認知)の偏りを要求している。そしてこれは、内容が、知覚の侵入、浸透に対して耐え得た(不浸透だった)作品に、以前に遭遇していることを、前提している。すなわち、作品の「内容」からの抽象化を覚えるために、知覚できないものとして、人はそれを以前経験しているのだ。にも関わらず、西洋の科学者たちは、非西洋文化圏のイコノロジーのために、「期待効用最大化」のような説明を構築し企画することで、この経験を回避している。西洋の芸術家の自意識は、形式の占有のなかで、それを抱擁している。
 固有性の占有と西洋のフォーマリズムは、その時、本質的にその自己認識(あるいは自意識)とつながっている。
 自身とまったく違うものとして、異邦人の文化的実践を、認識すること。内容への敬意と共に、理解し難いものとして、認識すること。それは、暗黙のうちに、「一つの文化的実践として」、自らの文化的実践を―自身に課せられた掟と束縛とともに―認識することだ。
 これは単に、自身の文化的実践が、多くの内の一つに過ぎないという自覚である。そして別の文化的実践が認知し難いという認識は、単にそのような「形式の例外」を解釈するために、利用可能な道筋だけをとりつけるという認識である。だから、異なる文化間における、異邦人の形式の意匠を領有することは、自身の主観性を思い出させる。この種の自己意識は、革新(Innovation)の必要条件である。
 占有、フォーマリズム、そして西洋美術の自己認識は、その「社会的内容」を浮き彫りにする機能がある。西欧の美術は、新しく、珍しい、非伝統的な方法を用い、身近にある「社会的な意味をもつ主題」を表現する。そうした方法によって、日常性を超えて付与される意義と、歴史的、文化的なパースペクティブを用い、「社会的内容」に、息吹を吹き込む。まさしく、ダヴィッド、ドラクロワジェリコーゴヤ、あるいはピカソの芸術は、そうした変身体験をさせるために霊感を高め、教育し、行動を起こさせる、形式の内での、身近な「社会的内容」の表現である。ヨーロッパの美術のフォーマリズムは、その社会的内容によって、伝統的に、相互に接続されている。ヨーロッパの美術の挑戦は、「主題の意義」を見る者に復活させるような、表現に富んだ革新的な方法で、形式の意匠を使うからだ。ここでの領有の計画は、本質的である。与えられた主題を異なるように知覚、概念化することの前提条件は、様々な視覚の形式が、実際に違うということにあるからだ。
 これらの視覚形式は、自身の視覚的な文化の伝統から、離れなければならない。彼らに期待される社会的な機能の要求のまま、演じるようになる伝統から。そのため芸術家は、これらの外にある身近な伝統を、意識的に捜し求め、彼らに差異を差し返す。


(訳者後記:ごめんなさい難解になってしまいました。私が読み解けた限りでは、「アプロプリエーション」するときに他者による芸術作品の意味、内容を勝手に理解したつもりになって搾取するのは駄目で(そこで内容の認知を否認するためのものとしてフォーマリズムが共犯者になる)、むしろそこで自分自身の他者性、自文化の相対性を認識し、そして自分たちの身近にある「社会的な内容」を非伝統的な方法を使って表現する(つまりこれは「異化」ということでもあり、そこでフォーマリズムを機能させる)。ということではないかと考えます。誤訳があるようでしたら、ご指摘いただければ幸いです。(というか多分、めっちゃあるような気がします))

*1:*1特色の占有appropriative characterをこれに変えました