私が同世代について知っている二、三の事柄

雨宮処凛の「生きさせろ!-難民化する若者たち」(大田出版)を読む。

「我々は反撃を開始する。
若者を低賃金で使い捨て、それによって利益を上げながら若者をバッシングする全ての者に対して。
我々は反撃を開始する。
「自己責任」の名のもとに人々を追いつめる言説に対して。
我々は反撃を開始する。
経済至上主義、市場原理主義の下、自己に投資し、能力開発し、熾烈な生存競争に勝ち抜いて勝ち抜いて勝ち抜いて、やっと「生き残る」程度の自由しか与えられていないことに対して」

という文から始まるこの書物は、二十代、三十代の「フリーター(だけではなく正社員も含むが)」の過酷な労働状況、「生存」するのさえやっとの日々を、当事者たちのインタビューを交えながら、徹底的に描いている。
フリーターやニート、ひきこもりを語る多くの人々は、彼らの「貧しい不安定な生活状況」を、本人の「社会性の無さ」、「無気力さ」、「叶わない夢を追い続けるナイーブさ」、あるいは「能力や技術の無さ」がその原因である、というように個人の意識やスキルの問題に還元して、彼らを批判する。
しかし本当にそうだろうか?
この本の重要なポイントは、いわゆる「フリーター問題」を、フリーターの自意識や価値観の側面から捉えることをせず、あくまでこの社会をかたちづくる構造的な視点から捉え返していることにある。
ではその視点とは何か。その問いの答えには、今のような正規雇用(正社員)と非正規雇用(バイト、派遣、請負)に明確な分割線を引く「格差社会」はどのようにしてつくられたか、という疑問がキーになるだろう。

「まず、必ず語られるのが、九五年に日経連がまとめた「新時代の『日本的経営』」である。
不況に直面し、日経連は以下のように働く人を三つに分けることを提言したのだ。
1  長期蓄積能力活用型
2  高度専門能力活用型
3  雇用柔軟型
漢字ばかりでわかりづらいが、1は企業の中核となる社員といった立場だ。従来の正社員のように長期雇用で昇給、昇進もある。2は専門的な技能を持つ契約社員と思ってもらえればいい。長期雇用ではなく、年棒制や業績給。そして3は、有期雇用、時給制で昇進はなし。この層が今まさに激増している使い捨て労働力だ。(「生きさせろ!」34、35p)」

そうして労働者派遣法が改正され、それまでは専門職にしか許されていなかった派遣業務が、製造業などほとんどの職種に許可されるようになる。危険な工場作業はバイトにやらせればいい、ということだ。
ようするにバブル期のような景気拡大がみこめなくなったので企業は安い賃金で雇え、かついつでも解雇できる「非正規雇用」を大量につかうことで利益を増やす、という戦略に出たわけだ。
この本に書かれている様な状況は、私もよく知っている。身近にもいるし、私自身も体験している。
この本に出てくる人たちは「もやい」や「フリーター全般労働組合」などで活動することにより、明確な問題意識のもとに社会を変えていこうとしている。(現に一部の運動は成功もしている)

しかし、そのような問題意識をもっている人は、まだ少数だと思われる。
私見では、いまの二十代、三十代は具体的な生活、つまり未来の見えない労働状況が一方では厳然と存在するにもかかわらず、ネット、アニメ、ゲーム、その他自分の関心領域のさまざまな表象体系に閉じこもり、おかれている社会状況のほうをかえりみない(またかえりみたとしても「技術」や「能力」または「モチベーション」といった個人的な問題としてそれらをとらえてしまう)。この乖離はなぜ発生したのか。
思うに、「六十年代」と「八十年代」がそれを解くキーワードだ。
いまの三十代、二十代後半の者たちの親はおもに全共闘世代だが、かれらは若いとき「政治運動」をした。その子どもたちはなぜ政治や社会に対する意識が低いか。答え。もともと親たちは「政治運動」などしていなかったから。
全共闘世代に属する人は大抵の場合、社会の問題を全部自分の自意識に還元してものごとを語る。つまりそこにはなんの「政治性」もない。全共闘世代の就職率が戦後最高だったのがそのことを物語っているのではないか?で、その子どもらはその最悪の部分を継承しているように思う。自らが置かれている状況を政治や社会の問題としては捉えず、「人生観」や「価値観」の問題として把握する。こずるい老人たちにとってこれほど扱いやすい連中はいないだろう。たとえ多くの若い連中が今の政治家や社会状況に対して批判的(というか冷笑的)だとしても、結局は社会システムに無知で個人的な「価値観」から批判する限り、老人たちはそんなもの痛くもかゆくも無い。そもそも少子化で若者の全体の投票人口に対する割合は低下しているのだから。
結局のところそうした若者が例えば討論すると、「私とあなたの意見は違いますね、ハイサヨナラ」という価値相対主義か、お互いにいいっぱなしで終わる不毛な議論(しゃべり場?)かのいずれかしかなくなる。

そして八十年代に発生したキラキラした消費社会の「イメージ空間」。それは、実はいまでも続いているのではないだろうか。サブカル的な価値観(生産過程の無視)、互いに異なる「多様な」趣味領域、それらはいまの世代に当たり前のことのごとく共有されている(まあ実際の「多様化した価値」による細分化が始まったのは九十年代からかもしれないけど)。経済的な下部構造が変わっても、むしろネットやその他メディアを通じて強化されているような気がするのだ。例えば、夜遅くまで働いて家に帰り、ネットで外山恒一政見放送を見て面白がり、それで朝早く出勤する、というようなかたちで。それに八十年代にデビューした漫画家、芸人、小説家、ミュージシャン、学者たちの影響力は、若干の翳りは見えるものの、いまでも決してなくなってはいない。
私は自分がその種の八十年代的な空間に超強力に囲い込まれているのを感じる。湾岸戦争が起き、地下鉄サリン事件があり、WTCへのテロがあったにもかかわらず、それらは決してこの空間を破壊しなかった。(闘争のエチカ?)
あと「無関係」の感覚がある。たとえば二十代で起業して成功した者と、同い年のフリーターはお互いに自分たちのことを無関係だと思っているだろう。もっといえば同じような生活レベルのフリーター同士でもたとえば「ミュージシャン」志望の人と「就職できないから仕方なくバイトで食いつなぐ」人はお互いに関係ないと思っている。
社会の構造上関係が無いわけがないのにもかかわらず、なぜそう考えてしまうか。いる「社会」は同じでも違う「世界」に住んでいる、と思っているからだ。それはある程度事実だけど、そのような「意識」自体が社会的に生産されたものである、という認識がそこには欠如している。

「生きさせろ!」は革命のための本だ。もちろんその「革命」は従来の意味とは違う。あくまでミクロな関係性に、それは根ざしている。
日常の具体的、かつミクロな関係性が権力を生産するのなら、同じように「革命」もまた生産することは可能だろう。それは簡単なことではないし、楽観的に過ぎるかもしれないが、どの道やらなかったら老人たちの使い捨て兵士にされて終わるだけである。
ゆえに日常的な実践において「革命」を断行せよ!