理念的なゲームは、思考されるしかないし、しかも無-意味として思考されるしかない。まさしく、理念的なゲームは、思考そのもののリアリティである。理念的なゲームは、純粋思考の無意識である。各思考こそが、意識的に思考可能な連続的時間の最小より小さい時間でセリーを形成する。各思考こそが、特異性の配分を放出する。あらゆる思考は、<一つの長い思考>において交流する。この長い思考は、自らの移動にノマド的な配分の全形態や全姿形を対応させ、至る所に偶然を吹き込み、各思考を分岐させ、「あらゆる回」に代わる「各回」を「一回」で結び付ける。
というのは、すべての偶然を肯定すること、偶然を肯定の対象にすること、これをできるのは思考だけであるからである。そして、このゲームを思考の中以外でやろうとしても何も到来しないし、芸術作品以外の成果を生産しようとしても何も生産されない。したがって、理念的なゲームは思考と芸術のために確保されたゲームである。そこでは、偶然を支配するために、賭けるために、稼ぐために偶然を分割するのではなく、遊ぶことができる者、言いかえるなら、偶然を肯定し分岐させることができる者のためにだけ勝利がある。思考の中にしかなく芸術作品以外の成果のないこのゲームは、思考と芸術をリアルにするものであり、世界のリアリティを、世界の道徳性と経済を攪乱する。
ジル・ドゥルーズ「意味の論理学」小泉義之訳・河出文庫(116-117)