今週のお題「この春、買ったもの、欲しいもの」


「自分がどこにいるのか、さっぱりわからない‥」
そう呟いたのは白い髭を生やした、僕の伯父さんだった。伯父さんは『H.cousin』の中に閉じ込められたのだ。ここは脱獄不可能な牢獄として、近所では有名だった。何しろ、脱出しようとする者には、扉の上にある酒樽っぽくもあり太鼓っぽくもある何かが頭に落ちてくるのだ―これでは出たくても出られない。牢獄の外には現在入所中の者の名前が記されていた。
伯父さんは長期の牢屋生活で、時空間の観念がよくわからなくなってしまっていた。
「だが、中は決して悪い環境じゃないぞ」
若い頃のおじさんが横から出てきて、言った。
「コーヒーは毎朝でてくるし、午後にはワインも飲めるのだからな」
「全く、若い頃の自分が常に目の前に現れてくるとは、恐ろしい拷問だ」
と現在の伯父さんは言った。この『H.cousin』では、過去の自分を常にそばにいさせ、犯罪者となった者に自らの人格を客観的に見させるという矯正のための設備が整っているのだ。
「時々、この黒い髭をむしってひっこぬいてやりたくなるよ」
と現在の伯父さんはひとりごちた。
そろそろ面会時間が終わってしまう。僕は伯父さんに、何か欲しい物があるか、と訪ねた。
伯父さんはしばらくして、
「そうだな、もうすぐ春になるから、何か春っぽいものを‥」
伯父さんの望みは抽象的でよくわからなかった。
「あんたはタイム・マシーンが欲しい、そうだろう?」
と若い頃のおじさんがニヤニヤしながら言った。伯父さんはそれを無視した。
「面会時間終了です」
と看守が現れ、そう言った。
僕は外に出された。現在の伯父さんと過去の伯父さんはこっちを見た。


Jean-Eugène Atget ウジェーヌ・アジェ
Au Tambour, 63 quai de la Tournelle”