[告知]石川卓磨キュレーション展プロローグ Tell all the Truth but it slant

6月8日(土)〜6月22日(土)まで、タリオンギャラリーにて、展示を行います。12月に開催される展覧会の、プロローグ展となっております。皆様、是非お越しください。

2013.6.8 - 2013.6.22

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石川卓磨キュレーション展プロローグ
Tell all the Truth but tell it slant ー真実を語りなさい、しかし斜めに語りなさいー
参加アーティスト:外島貴幸、豊嶋康子、箕輪亜希子、吉田正幸
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オープニングレセプション:2013.6.8 18:00-21:00
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本展覧会は、2013年12月に開催が予定されている、石川卓磨キュレーション展のプロローグとして位置づけられる展示プロジェクトです。この他にも石川キュレーション展の関連企画としては、今年1月よりWeb上で継続的に展開されている、同タイトルのブログによるプロジェクトがあります。 (http://totomiyo.blogspot.jp/2013/01/blog-post.html)
本展では、4名の参加作家それぞれが、テクスト、ドローイング、漫画、パフォーマンスなどジャンルを横断した思考に基づき、鉛筆のみを使って制作するウォール・ドローイングが展示されます。鉛筆は、書く/描くものとして伝統のあるオーソドックな素材ですが、巨大な壁面と空間との不釣り合いな関係によって、ネット空間とは違う形で作家の試みや制作の基本姿勢が反映されるでしょう。また会期中には、造形作家・批評家の岡粼乾二郎氏と、キュレーターの薮前知子氏を招いて、トークイベント「展覧会の想像力」を行います。

http://taliongallery.com/jpn/upcoming/

「モダニズムの論理」2


 懸命な努力によって、謎めいた「他者」の固有言語を組み込むこと。ここでの領有の目的は、他者の美的言語を、故意に搾取することではないだろう(しかしまた、多くの部分が不可解であるような「美的言語」の芸術作品への組み込みによって、自分自身をも困惑させることになるだろう)。こうして見ると、搾取とは、その主な意図が、まさしく知覚の限界を逃れるための企図の、予想外の副作用―無知と無神経さの帰結―である。
 西洋美術のフォーマリズムは、「固有性の占有」*1の、直接的な結果である。なぜならそれは、作品の「内容」が不可解、不明瞭で、無視される(ゆえに形式の特性がのしあがってこれた)唯一の場所だからである。
 この推論は、我々のヒトとしての、最初の認知問題(文化的なコンテクストを措いて、意味を識別すること、そしてただ二次的にだけ形式を識別すること)を、前提としている。形式それ自体は、意味を高め、照らし出すものとしては興味深い。だとしても、それならばアーティストは、最初に異邦人の芸術を見なければならないだろう。そして、形式の特性が、自分達の文化における芸術の、「形式の特性」についての自己認識を高める前に、そもそも彼らが文脈上の意味の把握に失敗しているということを、認めなければならないだろう。そう、例えば、Master of the Osservanza のような芸術家による、空間と構造の処理は、確かに古典的なヒンドゥーの壁画の、空間と構造の処理に似ているという自覚なしに、生じたかもしれない。しかしこの自覚なしには、それが、独特な様式として、意図的に弧絶され、洗練されることはなかったかもしれない。というのは、それを区別し強調するべき特徴の、外部のソースは無かっただろうから。
 美学としてのフォーマリズムは、内容についての、知覚(=認知)の偏りを要求している。そしてこれは、内容が、知覚の侵入、浸透に対して耐え得た(不浸透だった)作品に、以前に遭遇していることを、前提している。すなわち、作品の「内容」からの抽象化を覚えるために、知覚できないものとして、人はそれを以前経験しているのだ。にも関わらず、西洋の科学者たちは、非西洋文化圏のイコノロジーのために、「期待効用最大化」のような説明を構築し企画することで、この経験を回避している。西洋の芸術家の自意識は、形式の占有のなかで、それを抱擁している。
 固有性の占有と西洋のフォーマリズムは、その時、本質的にその自己認識(あるいは自意識)とつながっている。
 自身とまったく違うものとして、異邦人の文化的実践を、認識すること。内容への敬意と共に、理解し難いものとして、認識すること。それは、暗黙のうちに、「一つの文化的実践として」、自らの文化的実践を―自身に課せられた掟と束縛とともに―認識することだ。
 これは単に、自身の文化的実践が、多くの内の一つに過ぎないという自覚である。そして別の文化的実践が認知し難いという認識は、単にそのような「形式の例外」を解釈するために、利用可能な道筋だけをとりつけるという認識である。だから、異なる文化間における、異邦人の形式の意匠を領有することは、自身の主観性を思い出させる。この種の自己意識は、革新(Innovation)の必要条件である。
 占有、フォーマリズム、そして西洋美術の自己認識は、その「社会的内容」を浮き彫りにする機能がある。西欧の美術は、新しく、珍しい、非伝統的な方法を用い、身近にある「社会的な意味をもつ主題」を表現する。そうした方法によって、日常性を超えて付与される意義と、歴史的、文化的なパースペクティブを用い、「社会的内容」に、息吹を吹き込む。まさしく、ダヴィッド、ドラクロワジェリコーゴヤ、あるいはピカソの芸術は、そうした変身体験をさせるために霊感を高め、教育し、行動を起こさせる、形式の内での、身近な「社会的内容」の表現である。ヨーロッパの美術のフォーマリズムは、その社会的内容によって、伝統的に、相互に接続されている。ヨーロッパの美術の挑戦は、「主題の意義」を見る者に復活させるような、表現に富んだ革新的な方法で、形式の意匠を使うからだ。ここでの領有の計画は、本質的である。与えられた主題を異なるように知覚、概念化することの前提条件は、様々な視覚の形式が、実際に違うということにあるからだ。
 これらの視覚形式は、自身の視覚的な文化の伝統から、離れなければならない。彼らに期待される社会的な機能の要求のまま、演じるようになる伝統から。そのため芸術家は、これらの外にある身近な伝統を、意識的に捜し求め、彼らに差異を差し返す。


(訳者後記:ごめんなさい難解になってしまいました。私が読み解けた限りでは、「アプロプリエーション」するときに他者による芸術作品の意味、内容を勝手に理解したつもりになって搾取するのは駄目で(そこで内容の認知を否認するためのものとしてフォーマリズムが共犯者になる)、むしろそこで自分自身の他者性、自文化の相対性を認識し、そして自分たちの身近にある「社会的な内容」を非伝統的な方法を使って表現する(つまりこれは「異化」ということでもあり、そこでフォーマリズムを機能させる)。ということではないかと考えます。誤訳があるようでしたら、ご指摘いただければ幸いです。(というか多分、めっちゃあるような気がします))

*1:*1特色の占有appropriative characterをこれに変えました

エイドリアン・パイパーAdrian Piper「モダニズムの論理」THE LOGIC OF MODERNISM(1)

 西洋美術*1における、四つの特性がある。それらは、モダニズムの展開(とりわけ、ここ数十年のアメリカ現代美術の展開)を理解するための、中心に位置している。
1 「特色」の占有(appropriative character)
2 形式主義
3 自己認識
4 社会へのコミットメント
 この四つの特性(これらはお互いに関連している)は、強力なコンセプトと、戦略的な連続性を、西洋美術の歴史−特にモダニズムの−と、明白な政治性を持つ最近のアメリカ美術の展開との間に、付与している。この連続性に関していうと、奇妙にも、アメリカの様々なモダニズムでは、「グリーンバーグのフォーマリズムはまともではない」ものとして知られているのだ。
 一般的には、「内容の否認」(特に、明白な政治性をもつ主題の否認)によって特徴的なグリーンバーグのフォーマリズムが影響力を得たのは、マッカーシーの検閲、五十年代の赤狩りへの恐怖からの、日和見的、イデオロギー的な逃避としてだった。
 その限りでは、世界的な美術のコンテクストでは優勢だった「政治的な主題」への、このイデオロギー的な否認は、アメリカの帝国主義が、「催眠薬、鎮痛剤としての芸術」という、独自に「調合」したその概念によって、ヨーロッパの、長年にわたる「社会変革のためのメディウムとしての芸術」という伝統を奪うことを、成功させたのだ。
 西洋美術の「特色の占有」とは、つまりは、非西洋文化圏の美術から、インスピレーションを得るために、「盗み出す=引き抜く(draw)」ことである。このことの起源は、再活性化のために、過ぎ去った遠い文化−ヘレニズム期のギリシャ−の異邦人の芸術を「引き抜いて」いる、初期ルネサンスにあるかもしれない。このため、ルネサンスの真の教訓とは、遠近法の再発見ではなく、むしろインスピレーションのもととしての、差異の発見にあるのだ。
 西洋の、領有(appropriate)への欲望の、その初期の実例には、ドゥッチョとチマブーエの絵画における、ビザンティンの宗教芸術の影響が含まれる。イスラム美術とヒンドゥー美術は、ジョットとフラ・アンジェリコの芸術に影響している。より近い時代では、ゴッホにとっての日本美術、ゴーギャンにとってのタヒチ美術、ピカソにとってのアフリカ美術。また、もっと最近では、スチュアート・デイヴィスとモンドリアンにとっての黒人*2のジャズ、キース・へリングとデヴィッド・ヴァイナロヴィッチにとっての、黒人のグラフィティ・アート。
 植民地化された非西洋文化に依存している社会では、それは当然のことだ。労働‥天然資源の獲得は、労働でなければならない。美意識と文化的な資源も、また同じく。けれどもその行為は、後者の場合、必ずしも搾取(あるいは帝国主義的)であるとは限らない。それは、社会的に規定された西欧的自我の範囲内で「自己超越」することへの、代わりに成り得る行為かもしれないのだ。懸命な努力によって、謎めいた「他者」の固有言語を組み込むこと。ここでの領有の目的は、他者の美的言語を、故意に搾取することではないだろう。


訳者後記:appropriative characterを、どう訳していいかわかりませんでした‥

*1:*1原文ではEuroethnic art

*2:*2原文ではAfrican American

エイドリアン・パイパー「モダニズムの論理」(1)

エイドリアン・パイパーの「The Logic of Modernism」(1993)の1ページ目(全部で5ページ)を、翻訳しました。

原文はこちら↓
http://www.scribd.com/doc/45211386/Adrian-Piper-The-Logic-of-Modernism

ケイト・ボーンスタイン「Hello,creul world」序文

トランスジェンダーのクイア理論家、パフォーマンスアーティストであるケイト・ボーンスタインの「Hello,cruel world」の序文を訳しました。
この本の原題は「Hello,cruel world-101 Alternatives to suicide for teens, freaks,and other outrows」で、日本語にすると「こんにちは、残酷な世界−ティーン、フリークス、アウトロー達のための自殺に代わる101の選択肢」という感じなのでしょうか?
昔から英語は苦手なので、期せずしてところどころ「超訳」になっているかもしれませんが、ご容赦ください(誤訳をご指摘下ると幸いです)。

ケイト・ボーンスタイン”Hello,cruel world”
Introduction
私は、あなたの生存のために、この本を書きました。世界には、もっと優しい人が必要だと思うから。その人が誰であっても、どんな事をしていてもね。私たちは、アウトサイダーアウトロー、フリークス、変態、犯罪者達のおかげで「健全」なのよ。私は、このカテゴリー全てに、見事に落ちる。だからあなたがそれ(訳注・自殺)をしても、しなかったとしても、私には驚くようなことじゃないの。私には自分を殺すたくさんの理由があったし、そのための時間もあった。私は多くの人が非道徳的、違法だと考えることをやって生き続けてきた。私はそういう風に生きてこれて、嬉しいわ。だって、この本を本当に楽しんで書けたのだから。あなたにとっては、それは恐ろしい時間かもしれない。そうだとしたら、私は、あなたの勇気をもう一度自分で奮い起こす助けに私がなることを、願うわ。いつか私達が出会うことがあったら、私に教えて。この本の中で、あなたに何が「効いた」のかって。


原文は、こちら↓
http://www.sevenstories.com/Book/index.cfm?GCOI=58322100601640

告知「O,一、二人」

2月11日(土)にblanclassにて、「テニスコート」の吉田正幸さんとパフォーマンス「O,一、二人」をやらせて頂きます。皆様、ぜひお越しください。

http://blanclass.com/japanese/
2012年2月11日


O,1、2人(外島 貴幸+吉田 正幸)[ O,一、二人(仮)]


2011年11月29日結成。コントグループ「テニスコート」の吉田正幸と、美術家の外島貴幸のユニット。一人でできることを二人でやったり、二人でできることを二人でやったりします。


日程:2月11日(土)
開場:18:00
開演:19:30
入場料:1,000円/学生800円

ぼくと幽霊

「私はドアノブをつかむと静電気がバチッとくるやつになったことがない‥」
先月からずっと僕の家に現れ続けている幽霊がそう言った。
「そうですか、それは羨ましいですね」と僕は答えたが、幽霊は無視して「それから、冷たいものを食べると頭がキーンと痛くなる、というやつにもなったことがない‥」と呟いた。
「そうですか、神に愛されてますね」と僕は答えたが、幽霊はこれにも返事をしてこない。
「あなた幽霊の癖に人間を無視するってなんなんですか!?」と、とうとう僕はブチ切れた。なにしろ初めて現れたときからこいつは僕のことを無視しているのだ。
すると急に幽霊が僕の眼を見てきたので、その瞬間僕の心には猛烈な恐怖心が襲来したという(だがちょっぴり嬉しくもあった)。
僕が固まっていると、幽霊は僕から視線を外して、「なにがキーンと、だ」と呟いて床に唾をはき捨てた。僕は幽霊を見続けていた。しばらくすると、幽霊の身体はゆっくりと透明度を増していき、僕の視線は彼がいたはずの場所から、後ろの壁に移動していった。「Oh、リアルフォトショップ‥」と僕は思わず呟いた。
僕が床に光る唾を、物凄い嫌な顔をしながらトイレットペーパーでふき取っていると、家の中で放し飼いにしてあるセキセイインコが、「なにがキーンと、だ」と囀った。
それから一ヶ月近く、僕はインコが幽霊と同じ事を喋るのを聞く破目になったのだ。

(初出:フリーペーパー「からだのこと」一号http://www.facebook.com/karadanokoto?sk=wall、一部改稿)