松本人志「頭頭」

松本人志の「頭頭」は、「笑い」がわかっている人のなかでも、評判が悪い。大体の人が「つまらない」「むかついた」という感想を持つようである。確かに「頭頭」に、笑える箇所はほとんど無いといっていい。しかし、そもそも松本人志は、「頭頭」を「笑える映画」として創ったのではないと思う。
この映画は、むしろ松本の当時の「笑い」における方法論を、端的に示したものだ。
「頭頭」という異常な存在の周りを、ひたすら「ベタ」な人間関係、会話、話の展開が覆う。笑いにとってこのベタ(日常の小ネタ、いかにも「ありそう」な物語性)なものは極めて重要な-ボケを生成するためのモメントであると考えられる。
コントやギャグ漫画等、形式上時間軸が要請され、「物語」があるジャンルの笑いは、ある不条理なアイディア、設定をまずつくり、その後に「ベタなもの」の組み合わせによって作品における最適解を見出していく運動として捉えることができる(私の文章も一応それを試みている-とはいえ、勿論それがコントのすべてではない。「キャラクター」(松本人志の場合「キャシー塚本」とか)という要素も考えられるし、「ボケ」という、「これは笑いである」というメタ・メッセージを常に含んでいるコミュニケーションの在り方も、当然考察の対象になるだろう。だけど、そのことはまた後日)
「頭頭」は、そうした「ベタ」と「ボケ」の構造を、露悪趣味的にさらけだしたものだ。そのことは、「頭頭」のオチ、「ラーメンに髪の毛が入ってるやないか!」によって、決定的にわかるだろう。この映画を見た人が持つ「むかついた」、「不毛」な感じは、実はその露悪趣味に由来する。
(当然のことながら「最適解」を見出していく運動は、あらかじめゴールが決まっていてそこに向かう、ということではない。創る過程における飛躍は、常にある。しかしその飛躍の繰り返しがやがてある答えに辿り着くことの、この統御された「奇跡」を信じないものは作品が創れない)