シュール

鈴木雅雄は、「シュルレアリスムの射程-言語・無意識・複数性」(鈴木雅雄編、せりか書房)の冒頭論文、「開放と変形-シュルレアリスム研究の現在」において、1982年に発見された「自動筆記を用いた最初の作品」といわれる「磁場」の草稿に言及している。「自動記述」は一般に「意識の統御を逃れた無意識の流出(その記録)」と考えられている。しかし、この草稿から見えてくるのは、むしろ「多くの削除や書き直し」であり、「ブルトンによる、一冊の詩集に仕立てるための再構成の痕跡」だった。(例えば出版時には記されていた「抜き足差し足のタイヤ」というセンテンスは、実は最初の草稿に存在しなかった)
そしてこの「意外な発見」は、研究者達によって「現在のシュールレアリスム研究を横断するある根本的なモチーフ」へと発展していく。例えば、国立科学研究センター(フランス)のジャクリーヌ・シェニウー=ジャンドロは、この発見から「オートマティックな作業」という概念を導出する。
この概念は、当然のことながらひとつの語義矛盾であり、ややもすればこれ自体において「シュールな」表現であるとみなされかねない。しかし、決定的に重要なのは、この概念がシュールレアリスムの「可能性」を描き出すために必然的に要請される(されざるを得ない)ということである。「この表現を構成する二つの語の間の矛盾に、私達は常に意識的でなければならない。この論文でシェニウーが取り上げているのは、ブルトンとエリュアールが執筆過程で用いた、章の題名をあらかじめ決定しておきそれによって想像力に方向性を与える「冒頭の句」の手法であり、また書き手二人の意識を一つに「融解」するのではなく互いに刺激しあうように働く相互的「修正作業」である。(「シュルレアリスムの射程-言語・無意識・複数性」9P)」
「それは書かれたテクストそのものに触発されて進展し、しかも複数の方向に枝分かれしていく可能性すら持った思考の生産行為だと結論しなければならないだろう(同上、8P)」
この考えはシュールレアリスムだけでなく、美術(のみならず「芸術」といわれているもの一般)や「笑い」を思考するにあたって、極めて重要な問題を含んでいる。
勿論、鈴木雅雄氏はシュールレアリスムを文学-美術の圏内からより広く、自らを常に複数化していく「生存の美学」として(それは「芸術家」のみに与えられたものではなく無数の人に開かれている-それが「シュルレアリスムの射程」でもあるだろう)捉えている。
しかしそれが「欲望」という言葉を中心に展開されることには、若干の異議を唱えざるを得ない-たとえブルトン自身のテクストからそうした徴候が見出されるとしても、である。それでは「美術」や「笑い」の問題系にこの議論を接続することが、困難になるからだ。(とはいえ「欲望」という言葉は非常に便利なのでなんでも説明できてしまうけれど)
むしろここで重要なのは、ある種の論理形式である。実際シュルレアリスムの言語実験においてはシンタックスは(大体)守られていた。そもそもシンタックスこそが「異なる」イメージの並置を可能にする条件だからだ。そしてシンタックスは必然的にある論理形式(それが論理学的な意味での誤りであったとしても)をもっている。それは生成の過程において、それが「意識的」にであれ「無意識的」にであれ-経験的に構成される。
実際、シュールレアリスムの一般的理解(無意識の流出)を正しいものだと仮定してみても、それでは何故ブルトンは「自動筆記」のほかに「コラージュ」や「シュールレアリスム遊戯」を様々なかたちで行ったのか、という疑問が生じてくる。自動筆記が無意識の流出であるなら、新聞の切り抜きをつなぎ合わせて新しいセンテンスを作る「コラージュ」は、はじめから「主体」から外在化されたマテリアルによって成立するものだからだ。しかし、そもそもこれら二つの方法によって生成された文を、読者が「どれが自動筆記で、どれが新聞の切り抜きか」厳密に区別することは不可能である。
ゆえに、むしろ自動筆記も「コラージュ」も、言語の物質性から、論理形式-シンタックスによって媒介される「効果」をもたらそうとしたものだ、と捉えられる。どんなに突拍子もない単語や形容詞の羅列であれ、それが形式(シンタックス)を有している限り、我々はそこに複数の因果の系を見出してしまうからだ。そこでは「偶然」と「必然」が区別できない。
ここで持ち出すべきなのは「シュルレアリスムの射程-言語・無意識・複数性」所収の「ゲームの共同体(星埜守之)」で触れられているブルトンにおける「イマージュの経験主義」だろう。しかしここでは「イマージュの正当性・必然性は常に「自由な」生成の後にしか現れない(77p)」というよりも、与えられたイマージュの恣意性(そして複数のイマージュの組み合わせ、結合関係)をいかに「必然的」に生成させていくか、が問題なのだ。「抜き足差し足のタイヤ」をブルトンが新たに書き込んだように。

「何染めかい?
 何吊りかい?
 何結びかい?
 何娘かい?
 そんなに娘かい?
 そんなに娘なのかい?
 若いのかい?
 若かったのかい?
 憎いのかい?
 ここにはいないのかい?
 ねえ…ねえ!
 …言葉は、無力なの…」(松本人志「寸止め海峡」より「赤い車の男」の言葉)