坂口安吾「風博士」

「風博士」http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42616_21000.html


安吾の小説「風博士」は登場人物である「風博士」自身によって二重化されている。風博士は、「言葉によってしか存在しない」(*1)ファルスそのものであるかのように振舞う。
風博士は「存在しない」ものとして「描かれる」(「諸君は偉大なる風博士を御存知であろうか? ない。嗚呼(ああ)。」)。風博士は描写を逃れるかのように常に周囲に風を残して移動し続ける(挙句には周りの物体や太陽までもそれにあわせておかしな速度で変化=移動し続ける)。
小説の展開においては、ちょっと前に言われたことがすぐに消え去り、変化する。風博士は「自殺した」と語られるが、しかし後段になるとそのような言明は一切されず、ただ「風になった」というしつこい主張があるのみである。実際博士が「紛失した」のはただ結婚式に遅れたため急ぎすぎて「風になった」のだ、という風にしか読めないのだし、その「結婚式」もまた先の記述を裏切るものとしてある。風博士の「遺書(地の文と全く同じ調子、文体である)」においてバスク生まれの妻(その女性は蛸博士に寝取られ、それが風博士の彼に対する強い恨みとなっているはずの)がいるとされているのにも関わらず、それがすぐさま「なかったこと」にされ(「再婚」という言葉は使われない点に注意すべきだろう)、唐突に17歳の少女との結婚式が述べられる。かくして、記述と言明がなされては打ち消されていく。ちなみにこの結婚相手は「街頭に立って花を売りながら、三日というもの一本の花も売れなかったにかかわらず、主として雲を眺め、時たまネオンサインを眺めたにすぎぬほど悲劇に対して無邪気であった」少女であり、それは風博士に「稀にしか見当らない」ほど「ふさわしい」(安吾は「FARCEに就いて」で「喜劇」、及び「悲劇」と「ファルス」を対比している)。
「遺書」の風博士の学説においてもまた移動しつづける「存在」が語られる。「源義経」は「ジンギスカン」になり、「ジンギスカン」は「バスク人の先祖」になる。(呼び名の移動、そして地理的な移動−日本からモンゴルを挟み、スペインへ)
そして風博士が消えたちょうど同じときに、蛸博士は「インフルエンザに犯され」る。ここで風から「風邪」への移動が行われ、風博士は名前ごと「消える」ことになるだろう。
「諸君、偉大なる博士は風となったのである。果して風となったか? 然り、風となったのである。何となればその姿が消え失せたではないか。姿見えざるは之即ち風である乎? 然り、之即ち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。」
「姿が見えないものは風である」という述語論理がここでは用いられている。ここで「風邪」もまた「姿が見えない」ものであり、この文の「風」を「風邪」に変換しても「意味は通る」ことは重要である様に思われる。
このようにして「存在しない」ものはさらに「存在しなくなり」、ナンセンスな論理だけがその極限まで薄い「同一性」を保持することになる。

*1 ここでは風博士を規定するためにこのような言い方をしている。