やさしいウィトゲンシュタイン1

アラン・チューリングウィトゲンシュタインの研究室に入ると、彼は左手を顔のあたりに上げて指を動かし、右手を股間にもってきて手首をぷらぷらさせていた。
「何をやっているんですか、ウィトゲンシュタイン先生」
「ギターを弾く振りをエアギターと呼ぶのならば、エアギターを弾く振りは何ギターかを考えていたところだよ、チューリング君」
「がんばって生きてください、先生」
「そもそも人はエアギターの振りが可能なのかどうか?エアギターは偽りではない、という我々の想定は、おそらく早計なのではあるまいか?そして、我々の想定はいかなる経験に基づいているのか…アッ!板石!」
ウィトゲンシュタインは机の下に隠れた。
彼は椅子の足をしっかりと握り、しばらく小刻みに震えていた。
チューリングがかがんでウィトゲンシュタインに優しく微笑む。
「もう大丈夫ですよ先生、板石は遠くのほうに行きました」
「ああ恐かった」
「先生が「板石!」といったとき何を意味しているかが最近ようやくわかってきました」
「さすが私の一番弟子だ。ほかの連中ときたら馬鹿ばかりだからな。バートランド・ラッセルとか。大体何故私が「板石!」という叫びで意味することを言うのに、「板石!」という表現を別の表現に言い換えなくてはならないのか?」
チューリングは研究室の入り口の方をちらりと見た。
「がんばって生きてください、先生」
そういって彼は出て行こうとした。
研究室の前にバートランド・ラッセルがいたのだった。
(つづく)