ギャグということを念頭に置くと

ギャグということを念頭に置くと、当然の事ながら視覚的ショックという武器(文章でも視覚的な表現でたとえば「内面の過剰」を「形式的」に表すこともできる-ある種の詩人など)がつかえる点において、文章と漫画との違いがひとつあるといえる。
これはページの1コマ目になるべく「転」にあたるような(厳密に言うと「転」というほど大きく変らない。ちょっと展開した、その続きぐらいの感じ)場面を描き、ページの最後に「次への流れ」をもってくるやり方により活きてくる。
この手法はギャグ漫画でなくてもおそらく大抵の人はやっているだろう、というもので、たとえば「ライアーゲーム」などはページの最後のほうのコマはかなり小さく、めくると大ゴマがでてくるような仕掛けになっている。(もともとはホラー漫画の手法だったのかも知れない。ちょっと研究します)
私の作品がプロと比べられるようなものかどうかはともかく(そしてそれが成功しているかどうかはともかく)、武器としてはすごく便利だ、とは思った。ただあまり使うと飽きられてしまうだろう、とも思ったのだけど。
それとこの様な描き方はどうしても展開がでてきてしまい、結局ひとつの「話」ができてしまう。それがいいか悪いか、ではなく、話という意味での「展開」がほとんどないようなものが描けないだろうか、と感じた。「ボケ」の論理的な要請のみで動くような。(吉田戦車や「ねじ式」は「話」があると思う)
論理的といっても納得できるようなものではなく、傍目からはただトチ狂っているようにしか見えないだろうようなもの。コントではいくつかあるが、「漫画」や「文章」だと非常に難しいかもしれない。
パフォーマンスとの差異、という点もあるのかもしれない。