天下共に通行する処、之を達道と謂う

伊藤仁斎の「童子問」がかなり面白い。人と人との、不断に更新され、生成される関係性に「道」を見出す(またそれ以外に「人」はありえない)その視点は私の中で相当ヒットする。活物としての世界と、「道」における人倫の在り方(実践においてしか「仁」は存在しない)は同じことである。それらは常に変化するが故に自らの倫理的な実践(仁義礼智)が成されなければならない。そのことによって関係性が更新され、またその更新によって関係性(世界)が変化していく。それらが展開される場所を「天下」と呼ぶ。
「社会」があるからコミュニケーション(関係性)があるのではなく、その都度のコミュニケーションが「社会」であり、何人もそこから逃れられないが故に、それを「道」として(倫理的な実践として)捉えなければならない。社会はどんなに悲惨に見えようとも、それが関係性である限り潜在的に無数の「仁」の実践可能性を孕んでいる、といった感じか。これはオウム的思考への批判でもあるだろう。
伊藤仁斎が「ひきこもり」生活から脱し、私塾を始めたのは、この認識を得たからではないだろうか。
というかまあ今のところ軽く読んだだけで他の参考資料にもいっさい当たってないので単なる読書感想文状態ですが。あんまりいい加減なこと書くとまた御批判がとんできそうだから止めにしておこう。
ちなみに伊藤仁斎尾形光琳本阿弥光悦と親戚だったらしい。元禄文化における琳派古義学派の共通性、という研究は面白いのではないか。もしかしたら誰かやってるかもしれないけど。